宇部の幕末維新(人物)

慶応から明治に改元され、平成30年で150年。

維新夜明け前の幕末、京での八月十八日の政変、
下関戦争、禁門の変、第一次幕長戦争へと歴史の大きなうねりの中、
長州藩は存亡の危機を迎えた。

藩は、福原越後公(宇部領主)、國司信濃公(万倉領主)、益田右衛門介公(須佐領主)の三家老に禁門の変の責任を負わせ、
切腹を命じ、幕府へその首を差し出した。
藩を救うという大義のため、忠義を尽くしながらも「不忠不義」による切腹を命ぜられ
無念の最期を遂げた三家老の死は、
若い志士たちの心を突き動かす契機の一つとなっていく。

藩の裁量に対して高杉晋作らが挙兵し、藩内の保守派(俗論党)を追放。
そのエネルギーは、倒幕、維新へと進み、日本を新しい時代へと導いていった。

福原越後公

越後公は、文化12年(1815)、
長州藩の支藩徳山藩の藩主毛利広鎮の六男として生まれる。本名は元僴(もとたけ)。

11歳以降は、長州藩寄組の佐世(させ)家の養子として過ごし、嘉永4年(1851)江戸御留守居役に。
安政5年(1858)年藩命で藩重鎮の永代家老福原家の家督を継ぎ、この時から宇部の領主となった。

福原氏の家系は、毛利氏と同様に鎌倉時代の名臣大江広元を祖としており、
その後は国家老、加判役として、藩主毛利敬親公の補佐役となり尊皇攘夷運動を推進した。
福原家は、代々毛利家を支え続け、江戸時代から旧宇部村などの領主として、
福原家の菩提寺宗隣寺の建立、常盤湖の築堤や真締川の開通、鵜ノ島開作など宇部発展の礎を築いてきた。
上宇部中尾の屋敷跡は現在史跡公園になっている。

越後公は24代当主で、家老の重職を務めながら、
文武両道の教育施設「維新館」を設けるなどして領地宇部の発展にも尽くした。
その人柄は、
「寡黙で果敢。温厚で幕末初期の藩政を見事に運営した名臣」
「決断は鋭く采配は見事、主君に忠実な名家老」と伝えられている。

元冶元年(1864)の7月の禁門の変では、
総大将として伏見街道から京都を目指したが、
途中大垣藩との交戦により越後公は銃弾を頬に受け敗退し、帰藩した。
同年11月12日禁門の変の責任を負い、岩国藩の龍護寺(現在の清泰院)で切腹し、50歳の生涯を閉じた。
越後公の首級は、徳山で自刃した國司、益田両家老の首とともにも広島の幕府軍の元へ送られた。
辞世の句からは、忠義を尽くしながらも「藩主に背いた不忠不義」の汚名を着ての最期がこの上なく悔しかったことが伺える。

墓所は宗隣寺にある。慶応元年(1865)年5月に琴崎八幡宮に創祀され、
翌慶応2年(1866)11月完成の維新招魂社(後の宇部護国神社)の主神として遷座された。
汚名は慶応2年8月、罪状焼棄の命が下り破棄された。

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國司信濃公

信濃公は、長州藩の家老で尊皇攘夷の大義を唱えた一人だった。

天保13年(1842)、寄組高洲元忠の次男として萩に生まれ、
弘化4年(1847)、血縁のある寄組國司迪徳の養子となり、家督相続した。
寄組の國司家は、当人の能力次第で一代家老ともなる家格。

万延元年(1860)、19歳の時に初めて万倉の領地に赴任し、家臣を率いて鉄砲調練を指揮。
文久元年(1861)、大組頭(旗本の指揮官)に任ぜられ、翌年には万倉岩滝で再び家臣らを調練、銃の発砲訓練を行った。
とくに文久3年(1863)2月の長井雅楽切腹の検視役からの2年間は、國司信濃親相の最も活躍した時代である。
4月には、22歳で緒組総支配を任命され、攘夷実行のために下関に出陣。
6月には家老に、そして赤間ヶ関防備総奉行に任ぜられた。
この時手元役だったのが高杉晋作。高杉が創設した「奇兵隊」を、後に藩からの解散命令を存続へと導いている。

元治元年(1864)2月、藩主敬親公より遍諱を受け「朝相」から「親相」となる。
6月5日の池田屋事件の報を受け、福原、益田両永代家老とともに京へ出陣。
嵯峨・天竜寺より攻めるが、会津、薩摩軍を中心とする幕府軍に敗れ、帰藩し藩主の命を待った。

万倉に帰還してわずか2日間の滞在後、徳山の澄泉寺(明治4年に廃寺)に幽閉され11月12日に切腹した。
自刃した三家老の中でも、最年少の23歳。若くして実力で家老職に就き、
動乱の幕末を一気に駆け抜けていったあまりに早すぎる死だった。

菩提寺である天龍寺には、國司家の歴代当主の墓群とは別に、遺書の通り、信濃公と夫人の墓が並んでいる。
居住跡には美登里神社が建立されている。

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